鎌倉幕府→足利尊氏→室町幕府

足利尊氏

足利直義

高師直

足利市と足利尊氏って関係あるの?

足利市と足利尊氏には直接関係はありません。足利尊氏の祖先が足利市の出身です。尊氏自体は京都の出身と言われています。

足利氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて勢力を拡大し、尊氏はその家系の中で特に有名な人物です。足利尊氏が室町幕府を開いた。

足利尊氏のやった主な出来事、キーワードとなるものを羅列してください。

鎌倉幕府打倒(1333年)

後醍醐天皇との協力(建武の新政)

後醍醐天皇との対立・離反

建武式目の制定(1336年)

南北朝時代の開始

尊氏 vs 新田義貞・楠木正成の戦い

室町幕府の創設(1338年、征夷大将軍就任)

花の御所建立

南朝との和平交渉と決裂

観応の擾乱(内部抗争)

足利高氏→足利尊氏にかわるのは、何年で何の出来事がきっかけですか?

足利高氏が「足利尊氏」と改名したのは1333年、鎌倉幕府を倒した直後です。後醍醐天皇から「尊」の字を賜り、恩賞として改名しました。

これは、幕府打倒の功績を称える意味と、後醍醐天皇の側近として新体制(建武の新政)に加わる象徴的な出来事でした。

足利尊氏は最初は鎌倉幕府の人間で、鎌倉幕府を裏切り打倒して、次に後醍醐天皇のもとではたらき、後醍醐天皇もうらぎり打倒した。ということですか?

はい、その通りです。尊氏は元々鎌倉幕府の有力御家人でしたが、倒幕の流れで後醍醐天皇側に寝返り、幕府を滅ぼしました。その後、建武の新政で後醍醐天皇に仕えるも、不満や対立が深まり、ついには天皇を裏切って新政を崩壊させ、自ら室町幕府を開きました。まさに二度の裏切りで時代をひっくり返した人物です。

足利尊氏が後醍醐天皇を打倒して、かわりに北朝に立てたのは何天皇ですか?

足利尊氏が後醍醐天皇に対抗して北朝に立てたのは、光明天皇(こうみょうてんのう)です。後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝を開き、以後は南北朝の対立が続くことになります。

光厳天皇と光明天皇の関係は?

光明天皇は光厳天皇の実弟です。兄の光厳天皇は元弘の変で後醍醐天皇に退位させられた後、尊氏の北朝樹立時には院政を行う立場となり、弟の光明天皇が即位しました。

足利尊氏は、光厳天皇を敵として殺そうとしていたけど、途中、後醍醐天皇を敵としてことで、光厳天皇の配下についたの?

足利尊氏が光厳天皇を敵として殺そうとした事実はありません。むしろ尊氏は最初から光厳天皇の一派(持明院統)と近い立場で、鎌倉幕府時代も光厳天皇は幕府の擁立する天皇でした。

尊氏が一時的に後醍醐天皇側についたのは倒幕のためで、その後に後醍醐天皇と決裂して北朝を立てる際、光厳天皇の弟である光明天皇を即位させています。

光厳天皇は、足利尊氏が鎌倉幕府を倒そうとしていたタイミングで六波羅探題にいたのではないですか?尊氏の攻撃から六波羅探題から逃げたのでは?

はい、その通りです。
1333年の鎌倉幕府倒幕戦のとき、光厳天皇は京都の六波羅探題の庇護下にありました。尊氏が後醍醐天皇方として西上し、六波羅を攻めた際、幕府方は総崩れとなり、光厳天皇は退位させられ出家しています。

つまり、この時は尊氏は後醍醐天皇の側に立ち、結果的に光厳天皇を追い落とす立場でした。

光厳天皇が幕府の六波羅探題にいた理由は?

光厳天皇が六波羅探題の庇護下にいたのは、彼が鎌倉幕府が擁立した持明院統の天皇だったからです。

当時、天皇家は持明院統と大覚寺統が交互に皇位につく「両統迭立」の時代で、光厳天皇は幕府に推された持明院統の代表でした。

そのため京都では事実上、幕府の軍事拠点である六波羅探題が天皇の安全と権威を守る後ろ盾となっていました。

後醍醐天皇と光厳天皇の血縁関係はどんなですか?

後醍醐天皇と光厳天皇は、どちらも後宇多天皇の息子で異母兄弟です。後醍醐天皇は大覚寺統、光厳天皇は持明院統に属しており、この両統の皇位継承争いが南北朝時代の大きな火種となりました。

今の令和の天皇は、後醍醐天皇と光厳天皇、どちらの血筋をついでいるのですか?

今の令和の天皇(徳仁**なるひと**天皇)は、後醍醐天皇(大覚寺統)の血筋です。

南北朝時代、北朝(光厳天皇ら持明院統)が足利尊氏に支えられて優勢でしたが、室町幕府が南朝との「南北朝合一」(1392年)を実現した際、皇統は後醍醐天皇の大覚寺統に戻されました。

そのため、現皇室は南朝系=後醍醐天皇の子孫に連なります。

日本の天皇って、実在が確認できる天皇は最古の天皇は誰?何年前?

実在が確実に確認できる最古の天皇は、**第26代 継体天皇(けいたい)**です。
在位は6世紀前半(西暦507年頃〜531年)で、今から約1500年前の人物です。
それ以前の天皇(神武〜仁徳など)は『古事記』『日本書紀』に記録されていますが、考古学的・文献的に同時代の確証が乏しく、伝説的要素が強いと考えられています。

足利尊氏の室町幕府ってどこにあったの?

足利尊氏の室町幕府は、京都にありました。特に「室町」とは、京都の室町通り周辺に足利氏の邸宅があったことに由来しています。

幕府の中心は、現在の京都御苑の近くにあった「花の御所」と呼ばれる邸宅で、ここが政治の中心地となりました。鎌倉幕府とは異なり、室町幕府は京都を拠点に全国を統治しました。

1333年に鎌倉幕府が滅亡してから1467年まで、室町時代ということですか?

はい、その通りです。1333年に鎌倉幕府が滅亡し、足利尊氏が室町幕府を開いたことで室町時代が始まりました。

室町時代は主に1336年から1467年までの期間とされ、さまざまな内乱や権力闘争が起こりました。1467年には応仁の乱が勃発し、この時代は戦国時代へと移行していきます。

応仁の乱は、どこで誰と誰が戦いましたか?

応仁の乱は、1467年から1477年にかけて京都を中心に行われた内乱です。主に、足利幕府の将軍家である足利義政と、義政の叔父である細川勝元が対立し、細川氏と山名氏の支持を受けた双方の武士や大名が戦いました。この乱は、権力闘争や家督相続の問題が根底にあり、最終的に京都を壊滅的な状況に追いやり、戦国時代への引き金となりました。

室町時代以降はどんな時代がありますか?

室町時代以降の主な時代は以下の通りです:

戦国時代(1467年〜1573年) – 各地の大名が争い合う時代。幕府の権威が低下。

安土桃山時代(1573年〜1603年) – 織田信長や豊臣秀吉が登場し、統一を目指す。

江戸時代(1603年〜1868年) – 徳川家康が江戸幕府を開き、約260年の平和な時代が続く。

明治時代(1868年〜1912年) – 明治維新により、近代国家へと移行。

このように、日本の歴史は室町時代から戦国時代を経て、安土桃山時代、江戸時代と続きます。