壇ノ浦の戦い→鎌倉幕府

壇ノ浦の戦いって簡単にいうとなんですか?

壇ノ浦の戦いは、1185年に源氏と平氏が最終決戦を行った海戦。

平氏は滅亡し、幼い安徳天皇も命を落とした。これにより源氏が日本の支配権を確立し、鎌倉幕府の成立に繋がる大きな転換点となった。源氏の勝利は日本の歴史を一変させた。

壇ノ浦の戦いの前は、平家が日本を支配してましたか?それは何時代?

壇ノ浦の戦いの前、平家が日本を支配していたのは、主に平安時代の末期(11世紀後半から12世紀初頭)です。特に、平清盛が権力を握り、彼の死後もその影響力は続いていました。

清盛の時代、平家は朝廷との結びつきを強化し、海上交通を支配することで大きな権力を持っていました。しかし、源氏との対立が深まる中で、壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏に敗れ、平家は滅亡しました。

そしたら、壇ノ浦の戦いから、足利尊氏が鎌倉幕府を倒すまで、源氏が日本を支配していた。ということになりますか?

いいえ、そう単純にはいきません。源氏は壇ノ浦の戦いで勝利し、鎌倉幕府を開いたが、実際に長く続いたのは源氏の血筋ではなく、その後の北条氏の執権政治です。

源氏の直系は早くに途絶え、北条氏が幕府を牛耳るようになりました。足利尊氏が倒したのは北条氏の支配する鎌倉幕府です。

源頼朝

壇ノ浦の戦い→源氏の時代→北条氏の時代と、主なできごとを年代を簡単に列記してください

1185年 – 壇ノ浦の戦い:源氏が平氏を滅ぼす。

1192年 – 源頼朝、初代征夷大将軍として鎌倉幕府を開く。

1199年 – 源頼朝死去、源氏の力が衰え始める。

1203年 – 北条氏が実権を握り、執権政治が始まる(北条時政が初代執権)。

1333年 – 足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼす。

鶴岡八幡宮

源氏の時代って20年くらいしかなかったの?

そう、源氏の直系による支配は実質20年ほどしか続かなかった。頼朝が1192年に鎌倉幕府を開いたが、1199年に彼が死去すると、息子の頼家・実朝も早くに権力を失い、1203年には北条氏が執権政治を開始。源氏の名は残ったものの、実際の権力は北条氏が握っていた。源氏の時代は驚くほど短かったんだ。

源氏の時代って10年くらいしかなかったの?

「源氏の時代」をどう区切るかで大きく変わります。壇ノ浦の戦い(1185)で平家を滅ぼし、頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開いたのが1192年。頼朝が死ぬのは1199年なので、純粋に「源氏将軍の時代」ならわずか約7年しかありません。

頼家・実朝も早死にし、実際に源氏の血筋が将軍として続いたのは3代・約30年程度。その後は摂家将軍や親王将軍にすり替えられ、実権は完全に北条氏に移りました。

頼家・実朝も将軍になりましたか?

はい、なりました。

2代将軍 源頼家(よりいえ、在職:1199–1203)
頼朝の長男。若くして将軍となるも、権力を北条氏に奪われ伊豆修善寺に幽閉され、暗殺。

3代将軍 源実朝(さねとも、在職:1203–1219)
頼朝の次男。歌人としても有名だが、鶴岡八幡宮で甥(公暁)に暗殺。

源氏の将軍家は断絶。

つまり「源氏将軍」は頼朝・頼家・実朝の3代で終わり、そこから北条氏の天下に切り替わりました。

源氏から北条氏に権力がうつったのは謀略をつかったのですか?

源氏から北条氏への権力移行は、主に謀略と結束力によるものです。北条氏は、源頼朝の妻である北条政子を通じて源氏との血縁関係を結び、政子の父である北条時政が頼朝の死後、実権を握りました。また、北条氏は源氏内部の対立を利用し、徐々に権力を拡大。特に、執権制を確立し、幕府の政治を牛耳るようになりました。こうした戦略的な結びつきと巧妙な政治操作が、源氏から北条氏への権力移行を可能にしました。

北条氏の実権を握ったやつの歴代の名前を列記してください。

北条氏の歴代執権は以下の通りです:

北条時政(1203–1205年) – 初代執権。

北条義時(1205–1224年) – 2代目。

北条泰時(1224–1242年) – 3代目、執権政治を安定させる。

北条経時(1242–1246年) – 4代目。

北条時頼(1246–1256年) – 5代目。

北条長時(1256–1264年) – 6代目。

北条政村(1264–1268年) – 7代目。

北条時宗(1268–1284年) – 8代目、元寇を迎え撃つ。

北条貞時(1284–1301年) – 9代目。

北条師時(1301–1311年)

北条宗宣(1311–1312年)

北条煕時(1312–1315年)

北条基時(1315–1316年)

北条高時(1316–1326年) – 鎌倉幕府崩壊の原因となる。

北条貞顕(1326–1327年)

北条守時(1327–1333年) – 最後の執権、足利尊氏により鎌倉幕府が滅亡。

1年とか3年しか実権にぎってない人が多いね。みんな病死とかですか?

短命な執権が多い理由は、病死よりも権力闘争や内部の政治的な不安定さが原因です。北条氏内部では派閥争いや裏切りが頻繁に起こり、執権が廃されることも珍しくありませんでした。

例えば、14代目の北条高時は無能で、専横を極めた側近たちの影響で幕府が崩壊へと向かい、その後の執権も短命に終わるケースが続きました。